2014年03月02日
振り返ってみます。
お久しぶりです。
ブログを書かな過ぎて、書き方を忘れました。
震災から3年が経とうとしていること。
コラソンでの1年目が終わったこと。
これからやろうとしていること。
これからどう生きていこうか等々、1つの記事に収めようとして書いていたんですが、
結局、頭がパンクして削除致しました。
なので、
今回は沖縄での1年を振り返ってみます。
が、振り返るのは選手を終える時にすればいいと思っているし、振り返っても戻れるものでもないし、
戻っても同じことを繰り返すと思っているので、あまり書きたい分野ではありません。
いつか孫が出来て、昔話を聞かれた時に振り返るように話ができたらいいなと思っています。
その時までは過去の話はしないようにしたいと思ってます。
過去を話すより、これからの話ができる人の方が魅力的じゃないですか?笑
ですが、この1年は自分の中で大きく変化した年で、その中でよりたくさんの方に出会う事のできた1年間でした。
その方々に感謝の気持ちを伝えるためのものにしたいと思います。
佐賀での5年間は怪我ばかりで、自分が思っていたような選手生活を送ることはできませんでした。
移籍をしようと考えたのは、鶴田整形での入院生活中でした。
年末年始を病院内で過ごすという寂しさから、やけになった、訳ではありません。。
移籍の話をリハビリの先生に話をしてみると、自分が思うように生きるの1番だと背中を押してくれました。
生活は苦しくなることは、分かってはいましたが、チャレンジすることをやめてしまったら、それ以下にしかならないと思っていたし、
若いうちはお金を払ってでも苦労しろって言葉もあるくらいだし。。
数か月考える時間はありましたが、移籍を決断し沖縄での生活がスタートしました。
家を借りたり、住所変更したり、免許センターに行ったり、新しい場所に住むには意外と地味な作業が多いことを知りましたが、
なんとか身の回りを整えると、すぐにお仕事がスタートしました。
久茂地小学校、豊崎小学校での体育活動コーディネーターとしての勤務は、なかなか大変なものでした。
まず、この仕事の位置づけをイマイチ理解していなかった事、それ以上に先生方も戸惑っていました。
毎日一つの学校に居られるわけではないので、先生方の名前を覚える事もやっとだったし、児童の名前を覚えるなんて
出来ないと思っていました。
ですが、得意でない水泳や縄跳びを教えたり、運動会の練習で一緒に踊っているうちに、少しずつ距離を詰めることに成功しました。
僕たちの練習時間が20~22時ということもあり、学校行事の打ち上げに参加できなかった事も先生方と馴染むのに時間がかかった原因の一つだったかも知れません。。
1月末に体育コーディネーターの仕事は終了しましたが、2月16日のホーム最終戦には、両校の先生方がたくさん応援に来てくれました。
僕の中では本当に嬉しいことで、これだけでも沖縄に来て良かったなと思える出来事の1つでした。
子ども達の前ではハンドボール選手という立場ではなく、体操のお兄さん的な位置で1年生のオモチャに徹していたから、
スポーツ選手って印象は残せなかっただろうけど、
これから活躍して『スポんちゅ』に出演して、『この人、うちの小学校にいたんだよ』的な話題の一つになればいいかな。
でもなぁ、
顔薄いから記憶から消えるの早そうだなぁ。。
僕の夢は、体育の先生になる事と、スポーツ選手になる事でした。
二つの夢が同時に叶った1年になったわけで、
その1年間の中にはたくさんの出会いが溢れていて、
これだけ充実した人生を送ることが出来るのだから、
これからも変わらずに生きていこうと思います。
『人との出逢いを大切に』
『感謝の気持ちを忘れずに』
ハンドボール選手としての1年間についてはまた明日書きます。
では
ブログを書かな過ぎて、書き方を忘れました。
震災から3年が経とうとしていること。
コラソンでの1年目が終わったこと。
これからやろうとしていること。
これからどう生きていこうか等々、1つの記事に収めようとして書いていたんですが、
結局、頭がパンクして削除致しました。
なので、
今回は沖縄での1年を振り返ってみます。
が、振り返るのは選手を終える時にすればいいと思っているし、振り返っても戻れるものでもないし、
戻っても同じことを繰り返すと思っているので、あまり書きたい分野ではありません。
いつか孫が出来て、昔話を聞かれた時に振り返るように話ができたらいいなと思っています。
その時までは過去の話はしないようにしたいと思ってます。
過去を話すより、これからの話ができる人の方が魅力的じゃないですか?笑
ですが、この1年は自分の中で大きく変化した年で、その中でよりたくさんの方に出会う事のできた1年間でした。
その方々に感謝の気持ちを伝えるためのものにしたいと思います。
佐賀での5年間は怪我ばかりで、自分が思っていたような選手生活を送ることはできませんでした。
移籍をしようと考えたのは、鶴田整形での入院生活中でした。
年末年始を病院内で過ごすという寂しさから、やけになった、訳ではありません。。
移籍の話をリハビリの先生に話をしてみると、自分が思うように生きるの1番だと背中を押してくれました。
生活は苦しくなることは、分かってはいましたが、チャレンジすることをやめてしまったら、それ以下にしかならないと思っていたし、
若いうちはお金を払ってでも苦労しろって言葉もあるくらいだし。。
数か月考える時間はありましたが、移籍を決断し沖縄での生活がスタートしました。
家を借りたり、住所変更したり、免許センターに行ったり、新しい場所に住むには意外と地味な作業が多いことを知りましたが、
なんとか身の回りを整えると、すぐにお仕事がスタートしました。
久茂地小学校、豊崎小学校での体育活動コーディネーターとしての勤務は、なかなか大変なものでした。
まず、この仕事の位置づけをイマイチ理解していなかった事、それ以上に先生方も戸惑っていました。
毎日一つの学校に居られるわけではないので、先生方の名前を覚える事もやっとだったし、児童の名前を覚えるなんて
出来ないと思っていました。
ですが、得意でない水泳や縄跳びを教えたり、運動会の練習で一緒に踊っているうちに、少しずつ距離を詰めることに成功しました。
僕たちの練習時間が20~22時ということもあり、学校行事の打ち上げに参加できなかった事も先生方と馴染むのに時間がかかった原因の一つだったかも知れません。。
1月末に体育コーディネーターの仕事は終了しましたが、2月16日のホーム最終戦には、両校の先生方がたくさん応援に来てくれました。
僕の中では本当に嬉しいことで、これだけでも沖縄に来て良かったなと思える出来事の1つでした。
子ども達の前ではハンドボール選手という立場ではなく、体操のお兄さん的な位置で1年生のオモチャに徹していたから、
スポーツ選手って印象は残せなかっただろうけど、
これから活躍して『スポんちゅ』に出演して、『この人、うちの小学校にいたんだよ』的な話題の一つになればいいかな。
でもなぁ、
顔薄いから記憶から消えるの早そうだなぁ。。
僕の夢は、体育の先生になる事と、スポーツ選手になる事でした。
二つの夢が同時に叶った1年になったわけで、
その1年間の中にはたくさんの出会いが溢れていて、
これだけ充実した人生を送ることが出来るのだから、
これからも変わらずに生きていこうと思います。
『人との出逢いを大切に』
『感謝の気持ちを忘れずに』
ハンドボール選手としての1年間についてはまた明日書きます。
では
