スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新の無いブログに表示されています。
新しい記事を書くことで広告が消せます。
  

Posted by さがファンブログ事務局  at 

2014年03月26日

小学校での思い出

オフシーズンといってもそれぞれに仕事をしているので、
この期間はあんまり選手同士で絡むことが少ない…
のか、
ただ僕だけお誘いがないだけなのか(^-^;


平日の練習がないだけで、
だいぶ気持ち的に余裕があります。

次の仕事も無事に内定をいただきまして、
4月からの勤務地が宜野湾(ギノワン)になります。

勤務先については4月になってからご報告させていただきます。
ハンドボールばかりでバイトもしてこなかったので、かなり心配なところもありますが、
笑顔で接客できるように頑張ろうと思います。


これまで久茂地小学校と豊崎小学校、少しだけでしたが長嶺小学校で体育活動コーディネーターとして勤務してきました。

先生方がコラソンのホーム戦に応援に来てくれたのは、本当に嬉しい思い出です。


久茂地小学校は昨日閉校式を迎え、100年以上続く歴史に幕を下ろしました。
最後の1年間に携われたことを誇りに思います。

国際通りが通学路という、都会の真ん中にある小学校なのですが、
僕の過ごした田舎の小学校と似た雰囲気のある学校でした。
きっと子ども達は、国際通りで鬼ごっことか、かくれんぼしてたんだろうなぁ(^^;

先日開催された沖縄国際映画祭。
那覇市・国際通りでもレッドカーペットが開催されまして、
久茂地小学校の6年生も招待され、僕も一緒にレッドカーペットを歩かせていただきました。




元々参加するつもりはなかったんですが、
担任の先生方が声を掛けてくださり、父兄さんからシャツを借りて歩いてしまったという…

このノリの良さが久茂地だなぁと。

翌日の新聞にもちゃっかり写っていました(^-^;
卒業式の時にもOTVの夕方のニュースに映っていたらしい。。
コラソンの選手としてじゃなく、メディアに出ると思ってないなかったのでなんだか貴重な経験でした。

無くなるという事は、戻る場所が無くなるという事で、
これは本当に寂しい事だと思います。
でも、携わった方々の思い出として残っていくと思います。
別れってのは本当に寂しい事だけど、受け入れることが出来れば、きっと良い思い出として残っていくんだろうな。

いつか沖縄での生活を振り返ることがあると思います。

きっと僕は沖縄を離れていて、誰かから送ってもらった泡盛を、キレイなお嫁さんと飲みながら、子どもの寝顔を眺めている時なんじゃないかなぁ。

素晴らしい妄想だ。


てか、ずっと沖縄に居たりして…笑


さて、洗濯物でも干すかな。



ではclover
  

Posted by 松信 亮平  at 21:07Comments(0)

2014年03月20日

前に進むために

3月は自由に使っていいと許可をもらえたので、
11日から16日まで岩手県に行ってきました。

№20中村彰吾(以下ドクター)選手が岩手県宮古市出身ということで、
半ば強引ではありましたが、
スケジュールを調整してもらい同行してもらいました。

3月11日を被災地で迎える事は、皆が皆出来ることではないと思ったし、
実際に行き、そこで感じる事を大切にすべきだと思ったのと、

『ドクターが何故医者を辞めてハンドボールを選んだのか?』
という疑問をひも解くために岩手県を訪ねることにしました。

盛岡に到着し、沿岸部の宮古市に向かった道中で14時46分を迎えたため、
追悼式に出ることができませんでした。。

岩手は僕が思っていた『県』のイメージよりも大きく、盛岡から宮古市まで2時間弱もかかった為、
途中の道の駅で小休止。




のはずが、思いっきり雪を楽しんでしまいました。


宮古市に着いて、そのまま沿岸部に連れて行ってもらいましたが、
割と早い段階で瓦礫が撤去されたようで、家屋の土台部分だけが残っている状態でした。

初めて来た僕には震災前の街並みをイメージすることができませんでした。

浄土ヶ浜の資料館の方にフリースを借り、日が沈む前に走って見学をし、
返すタイミングでお話を聞かせてもらうと、
『全く復興は進んでいない』とおっしゃっていました。

復興についての考え方もそれぞれだと思うので、その方の意見がすべてではないと思いますが、
期待するイメージには全く追いついていないのだろうと思いました。

そして、被災地として岩手、宮城、福島、茨城など、県単位でイメージしがちですが、
特に被害が大きかったのは、各県の沿岸部であることを再確認しました。

また、その沿岸部でも津波被害の有無で、全く違う生活がある事を知りました。


その日の夜は、
岩手県ハンドボール協会理事長 岡市 武先生にお会いし、
事務局から預かってきた、コラソンちんすこうの売上金の一部を義援金としてお渡しさせていただきました。




実家に一泊させていただき、
ドクターが風呂に入ってる時など、ドクターの居ぬ間に彼のルーツに迫りましたが、

どうやらご両親の影響を存分に浴びて、今に至っているのだと気づきました。


育てたように子は育つ

蛙の子は蛙

的な言葉が浮かびましたが、『医者辞めてコラソンに入った』ってだけでは、
父を越えることは到底出来ないなと、

そういう器のでかい父でありました。
(毛ガニ、中トロ、ホルモンに冷麺…またお願いします)


ドクターよ、もっと気前の良い男に育つのだ!!




翌日からは盛岡に住むドクター兄の家にお邪魔し、

盛岡第一、花巻南、盛岡南、不来方など、
見学したり、一緒に練習したり、指導させてもらったり…

ドクターがハンドボールにどっぷりハマり、練習がしたいが為に、
病院のスケジュールを調整して練習に参加していた学校を巡りました。


仕事を調整してまで高校生とハンドボールがしたいという大人を見つける方が難しいなと。
ハンドボール選手という立場になれていなかったら…

ゾッとします。


彼が『ハンドボール界の武井壮』と呼ばれる日もそう遠くないでしょう。。



ドクターについてイジッてみましたが、
今回の目的は全く違うところにあるので、武井壮の話は放っておきましょう。





今回、僕が岩手に向かったのは、日本リーグの同期選手を中心にスタートさせた活動である

『BORDERLESS』の最初の活動を、岩手県で実施できないかという思いからの行動でした。

実際に岩手県を巡り、関係者の方々にお会いすることで、プラスになることがあると思うし、

僕たちに何が出来るのかをより具体的にイメージすることが出来ると考えました。


盛岡や花巻という地域は全国的に盛んなイメージがあると思いますが、
小さな頃からハンドボールに触れる環境が整っているかいうと、そこまでには至っていないようです。

しかしながら、今回お会いした方々はもちろん、岩手にはハンドボールに対する情熱を持った人間が多いことを知りました。

これから数年後には岩手国体も控えているし、そこに向けた強化や普及についても考えているのだと思います。




これから選手同士で話し合いながら、
僕たちの自己満足にならないように、しっかりと進めていきたいと思います。


Facebookで見つけた言葉に勇気をもらいつつ、必ず実現したいと改めて感じることができた言葉がありました。

プロサッカー選手 小笠原満男選手の言葉です。


『サッカーに正解がないように、
支援活動に正解なんてない。

誰かの指示や答えを待っていても何も始まらない。

今、自分がこうしたいと思ったら、
それをとりあえずやってみる。

頑張ってやり続ければ、必ず道は開けるんでね』






自分に出来ることは小さなことかもしれないし、周りから見れば『?』かもしれないけど、
ハンドボール選手って名乗っている以上、何か1つくらいハンドボール界に残してみたいと思っています。

日本リーグのパンフレットには載らない事だけど、

とにかく一歩前に進んでみようと思います。





が、


皆さんのご協力がなければ何にも出来ない、

千代田の山猿です。


周りの方にお願いすることが多々あると思いますので、

是非とも力を貸してくださいm(__)m


『オラに力を』


ではclover  

Posted by 松信 亮平  at 01:54Comments(0)

2014年03月06日

プレイバックパート2



確定申告って何なのか、沖縄に来てから初めてな経験が続いております。

レギュラーシーズン終了後から、
事務所の水野GM、内山FJ、石田GKと共に、スポンサー企業への報告に同行していまて、
シーズン報告の資料を広げながら話すメンバーの横で、

置物のようにしております。


ユニホームに付いているスポンサーさん以外にも、たくさんのスポンサーさんがあり、
チームを支えて下さる方々に直接お会いしたことで、
改めてコラソンというチームを知ることができました。


これから更にたくさんの方々から、ご支援いただけるようなチームになれるように、
コラソンの選手として頑張りたいと思いました。
そして、可能性を感じてもらえるような魅力的なチームになれるよう、選手自身が考え、行動していける自立した集団になることも大切なことだと思いました。


しかしながら、この1年は環境がガラッと変わり、まずはその流れに馴染むことが一番重要だったなぁと。

練習、仕事、食事、お酒…
分かってはいても、なかなか身体が間に合わないこともありました。。

自分のために使う時間の作り方については、もうちょっと工夫する必要があるなと思いますが、チームの中での自分の立ち位置については少しずつ分かってきましたね。


自分はこんな人間ですって事を、うまく相手に理解してもらうこともテクニックだと思います。
受け入れてもらうことで選手としても動きやすくなることを強く感じました。

場合によっては自分を大きく見せることも必要ですが、無理して背伸びしても、直ぐにふくらはぎが吊ります。

最初が肝心ではありますが、途中でボロが出るのがオチなので、
正直に生きていった方が楽しく生きられると思います。


4月から新生活が始まる方も多いと思いますが、どれだけ早く馴染むかが大事になってくると思います。

僕も新しいお仕事がスタートしますので、決まり次第報告させていただきます(^^)


明日から都内に入る予定ですが、
少々ブログから離れることになりそうです。


ではclover  

Posted by 松信 亮平  at 17:30Comments(1)

2014年03月02日

振り返ってみます。

お久しぶりです。

ブログを書かな過ぎて、書き方を忘れました。

震災から3年が経とうとしていること。
コラソンでの1年目が終わったこと。
これからやろうとしていること。
これからどう生きていこうか等々、1つの記事に収めようとして書いていたんですが、
結局、頭がパンクして削除致しました。

なので、

今回は沖縄での1年を振り返ってみます。
が、振り返るのは選手を終える時にすればいいと思っているし、振り返っても戻れるものでもないし、
戻っても同じことを繰り返すと思っているので、あまり書きたい分野ではありません。

いつか孫が出来て、昔話を聞かれた時に振り返るように話ができたらいいなと思っています。
その時までは過去の話はしないようにしたいと思ってます。

過去を話すより、これからの話ができる人の方が魅力的じゃないですか?笑


ですが、この1年は自分の中で大きく変化した年で、その中でよりたくさんの方に出会う事のできた1年間でした。
その方々に感謝の気持ちを伝えるためのものにしたいと思います。


佐賀での5年間は怪我ばかりで、自分が思っていたような選手生活を送ることはできませんでした。
移籍をしようと考えたのは、鶴田整形での入院生活中でした。
年末年始を病院内で過ごすという寂しさから、やけになった、訳ではありません。。

移籍の話をリハビリの先生に話をしてみると、自分が思うように生きるの1番だと背中を押してくれました。
生活は苦しくなることは、分かってはいましたが、チャレンジすることをやめてしまったら、それ以下にしかならないと思っていたし、
若いうちはお金を払ってでも苦労しろって言葉もあるくらいだし。。

数か月考える時間はありましたが、移籍を決断し沖縄での生活がスタートしました。

家を借りたり、住所変更したり、免許センターに行ったり、新しい場所に住むには意外と地味な作業が多いことを知りましたが、
なんとか身の回りを整えると、すぐにお仕事がスタートしました。

久茂地小学校、豊崎小学校での体育活動コーディネーターとしての勤務は、なかなか大変なものでした。
まず、この仕事の位置づけをイマイチ理解していなかった事、それ以上に先生方も戸惑っていました。

毎日一つの学校に居られるわけではないので、先生方の名前を覚える事もやっとだったし、児童の名前を覚えるなんて
出来ないと思っていました。

ですが、得意でない水泳や縄跳びを教えたり、運動会の練習で一緒に踊っているうちに、少しずつ距離を詰めることに成功しました。

僕たちの練習時間が20~22時ということもあり、学校行事の打ち上げに参加できなかった事も先生方と馴染むのに時間がかかった原因の一つだったかも知れません。。

1月末に体育コーディネーターの仕事は終了しましたが、2月16日のホーム最終戦には、両校の先生方がたくさん応援に来てくれました。
僕の中では本当に嬉しいことで、これだけでも沖縄に来て良かったなと思える出来事の1つでした。

子ども達の前ではハンドボール選手という立場ではなく、体操のお兄さん的な位置で1年生のオモチャに徹していたから、
スポーツ選手って印象は残せなかっただろうけど、
これから活躍して『スポんちゅ』に出演して、『この人、うちの小学校にいたんだよ』的な話題の一つになればいいかな。

でもなぁ、


顔薄いから記憶から消えるの早そうだなぁ。。





僕の夢は、体育の先生になる事と、スポーツ選手になる事でした。

二つの夢が同時に叶った1年になったわけで、

その1年間の中にはたくさんの出会いが溢れていて、

これだけ充実した人生を送ることが出来るのだから、

これからも変わらずに生きていこうと思います。


『人との出逢いを大切に』
『感謝の気持ちを忘れずに』


ハンドボール選手としての1年間についてはまた明日書きます。


ではclover  

Posted by 松信 亮平  at 20:22Comments(5)